地元の人から聞いた体験談。
✿ひなた✿
-です。いざ、日本や海外で地震が起きて自分自身が沿岸にいた場合、一番良いのが、やはり、高台にすぐに逃げる事だそうです。しかし、自分がいる場所は少し内陸だから大丈夫と思っていた人が多い少し高台の地域でも《想定外》の津波がきて、ギリギリ逃げた人や津波に流された人もいます。津波が起きた場合。想定外の事も考え、山の上の方の高台へ逃げる必要があるようです。
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1: ✿ひなた✿
①親戚の人達から、震災の時の話を聞きました。一番耳をふさぎたくなるのは。高台の人達が見た光景の話、高台へ逃げようとする人達の中へトラックが突っ込んで、人をひきながら、トラックは前進するが、トラックもひかれた人も津波にのまれてしまった話②大船渡市のKおばちゃん達は、地震が、あった日、家から5分くらいのホームセンターに行ってたそうです。地震が起き、おさまったトコロで、家に向かい、家が壊れてないか見に行ったそうです 。おじさんが、川の方で、柳の木が3本。歩く歩道に載せたように動くのをみた瞬間、土手が破壊され、黒い津波がなだれ込んでくるのが、見えたので。身一つのまま、急いで高台へ逃げて無事だったそうです。家は津波に飲み込まれ、家の中の物は全部流されたそうですが、半壊までは行かず、お盆に行った時はいつもと変わらない程に、修復されてましたが、仏壇間にある部屋の壁には、津波がここまできたという後が残ってました(T-T*)ウウウ。----------------------------------------母の故郷に帰った際に会え、おばさんと別れ際に、思い出して、おばさん達だけが、避難者リスト・見たくないけど死亡者リスト何日もネットで見ながら、リストになくては何回も落ち込み。。やっと避難者リスト見て名前があった時の嬉しさ。探していた人が生きて目の前にいると、涙が勝手に涙が溢れ今まで体験した事ない例えようない気持ちになりました。③いとこのおばちゃんは、釜石の漁業組合にいて、 地震が起き、同僚と急いで、外に出たら、 道路が地割れし、電信柱が、次々と倒れてきたので 周辺の人達も、ここもやばいから、逃げよう!と 言う声で、高台へ無我夢中で、逃げたそうです。 地震が落ち着いてきたので、職場の方を見ると、 津波に飲み込まれる瞬間を観たと(T_T) 波が引き行って見ると職場近くで、知らない おじいちゃんおばあちゃんが倒れていて 亡くなっていたそうです。 おばちゃんも海の近くにいたとか、 早めに逃げてくれて本当に良かったデス(T_T)私が、地元の人から聞いた話は、こんな感じです。
2: GALM2
以下は前回行った南三陸・東松島の様子です。今回行った陸前高田は、あまり人と話をする時間が無かったので、また改めて報告します <(゚Д゚メ)・現地のボランティア団体メンバーの話津波が川を逆流した事により、海・川両方から囲まれる状態となった。親友と共に家に取り残された祖母を助ける為、家に向かったが鍵がかかっていた。その為、やむを得ず窓を割って突入。祖母は津波という状況を全く知らず、彼と口論になったが、近所の人の呼びかけで2階に逃げ込んで助かった。尚、1階は全て水浸しになってしまった。・魚屋を営み、ボランティアにも尽力している人より車で逃げようとしても、衝突事故を起こし、結局津波にのみ込まれた人もいた。・松島にあるホテルの関係者より津波の後、プレハブを建ててコンビニを再開。法律上では営業許可が下りなければならないが、そんな事を待っていられる状態では無い。現に周りには何も店が無い状態だったので、開店した時は大勢の客で賑わったという。・東松島の小学6年生自分も何か手伝いたいと思って、スーパーの掃除を手伝ったのが始まり。(以降、物資の配給等の手伝いをしている)他の事(勉強やスポーツをしたいと言う気持ち)はあまり考えていない。・東松島の現地の人まだ8月だが、秋になると一気に冷えてくるので、そろそろ毛布等の暖を取る物を準備しなければならない。・最後にまた、現地のボランティア団体のメンバーの話悲しい事ではあるが、今回の震災が対岸の火事になりつつある。西日本からやってきたボランティアの人は、「今回の震災が忘れられているようにも見える」と言っていた(当然、西日本の人全てが忘れていると言う事では無い)"どうか、この震災があったと言う事だけは忘れないで欲しい"
3: GALM2
先週行って来た陸前高田の報告を改めて。・8月に行った南三陸と比べ、瓦礫の撤去は進んでいる様に見えた。たが、その分瓦礫の山の高さは、途轍もない。・84センチの地盤沈下により、満潮時は水たまりの場所が目立っている。・津波の高さは10Mは余裕で越えている。津波発生当時、体育館の高台に逃げ込んでも、津波の高さは屋根の上まで達し、そこまで人の体が浮かされたと言う。ガソリンスタンドの看板がそれを物語っている。写真でその高さは完全に伝えられないが・・・。・ツアーの添乗員から津波前の写真(雑誌)を見せてもらったが、もはやどこからのアングルかさえ分からない。そして、今回参加したツアーの最大の魅力(ォィ)である、皆で雑魚寝。・場所は廃校になった学校の体育館。外にトイレ、水道があるが、やはり臭いが強烈である。また、草木が手入れされていないせいか、蛾の数・大きさが次元を越えていた。その日は、他の団体等の大勢の人が来ていた為、1人あたりのスペースも狭すぎた。寝袋に入っても堅い床のせいで、なかなか寝付けなかった。だが、震災当時、体育館で避難を余儀なくされていた人は、このような夜を嫌という程味わっている。如何に自分達が恵まれているかと言う事を体験した貴重な一晩でした。
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1番~3番を表示
09月04日
07:25
1: ✿ひなた✿
①親戚の人達から、
震災の時の話を聞きました。一番耳をふさぎたく
なるのは。高台の人達が見た光景の話、
高台へ逃げようとする人達の中へトラックが
突っ込んで、人をひきながら、トラックは前進するが、
トラックもひかれた人も津波にのまれてしまった話
②
大船渡市のKおばちゃん達は、
地震が、あった日、家から5分くらいの
ホームセンターに行ってたそうです。
地震が起き、おさまったトコロで、家に向かい、
家が壊れてないか見に行ったそうです 。
おじさんが、川の方で、柳の木が3本。歩く歩道に
載せたように動くのをみた瞬間、土手が破壊され、
黒い津波がなだれ込んでくるのが、見えたので。
身一つのまま、急いで高台へ逃げて無事だった
そうです。
家は津波に飲み込まれ、家の中の物は全部流さ
れたそうですが、半壊までは行かず、お盆に行った時は
いつもと変わらない程に、修復されてましたが、
仏壇間にある部屋の壁には、津波がここまで
きたという後が残ってました(T-T*)ウウウ。
----------------------------------------
母の故郷に帰った際に会え、おばさんと
別れ際に、思い出して、おばさん達だけが、
避難者リスト・見たくないけど死亡者リスト
何日もネットで見ながら、リストになくては何回も
落ち込み。。やっと避難者リスト見て名前があった時の
嬉しさ。探していた人が生きて目の前にいると、
涙が勝手に涙が溢れ今まで体験した事ない
例えようない気持ちになりました。
③いとこのおばちゃんは、
釜石の漁業組合にいて、 地震が起き、
同僚と急いで、外に出たら、 道路が地割れし、
電信柱が、次々と倒れてきたので
周辺の人達も、ここもやばいから、逃げよう!と
言う声で、高台へ無我夢中で、逃げたそうです。
地震が落ち着いてきたので、職場の方を見ると、
津波に飲み込まれる瞬間を観たと(T_T)
波が引き行って見ると職場近くで、知らない
おじいちゃんおばあちゃんが倒れていて
亡くなっていたそうです。
おばちゃんも海の近くにいたとか、
早めに逃げてくれて本当に良かったデス(T_T)
私が、地元の人から聞いた話は、こんな
感じです。
09月19日
08:37
2: GALM2
以下は前回行った南三陸・東松島の様子です。
今回行った陸前高田は、あまり人と話をする時間が無かったので、また改めて報告します <(゚Д゚メ)
・現地のボランティア団体メンバーの話
津波が川を逆流した事により、海・川両方から囲まれる状態となった。親友と共に家に取り残された祖母を助ける為、家に向かったが鍵がかかっていた。その為、やむを得ず窓を割って突入。
祖母は津波という状況を全く知らず、彼と口論になったが、近所の人の呼びかけで2階に逃げ込んで助かった。
尚、1階は全て水浸しになってしまった。
・魚屋を営み、ボランティアにも尽力している人より
車で逃げようとしても、衝突事故を起こし、結局津波にのみ込まれた人もいた。
・松島にあるホテルの関係者より
津波の後、プレハブを建ててコンビニを再開。法律上では営業許可が下りなければならないが、そんな事を待っていられる状態では無い。現に周りには何も店が無い状態だったので、開店した時は大勢の客で賑わったという。
・東松島の小学6年生
自分も何か手伝いたいと思って、スーパーの掃除を手伝ったのが始まり。(以降、物資の配給等の手伝いをしている)
他の事(勉強やスポーツをしたいと言う気持ち)はあまり考えていない。
・東松島の現地の人
まだ8月だが、秋になると一気に冷えてくるので、そろそろ毛布等の暖を取る物を準備しなければならない。
・最後にまた、現地のボランティア団体のメンバーの話
悲しい事ではあるが、今回の震災が対岸の火事になりつつある。
西日本からやってきたボランティアの人は、
「今回の震災が忘れられているようにも見える」と言っていた(当然、西日本の人全てが忘れていると言う事では無い)
"どうか、この震災があったと言う事だけは忘れないで欲しい"
09月25日
18:40
3: GALM2
先週行って来た陸前高田の報告を改めて。
・8月に行った南三陸と比べ、瓦礫の撤去は進んでいる様に見えた。たが、その分瓦礫の山の高さは、途轍もない。
・84センチの地盤沈下により、満潮時は水たまりの場所が目立っている。
・津波の高さは10Mは余裕で越えている。津波発生当時、体育館の高台に逃げ込んでも、津波の高さは屋根の上まで達し、そこまで人の体が浮かされたと言う。ガソリンスタンドの看板がそれを物語っている。写真でその高さは完全に伝えられないが・・・。
・ツアーの添乗員から津波前の写真(雑誌)を見せてもらったが、もはやどこからのアングルかさえ分からない。
そして、今回参加したツアーの最大の魅力(ォィ)である、皆で雑魚寝。
・場所は廃校になった学校の体育館。外にトイレ、水道があるが、やはり臭いが強烈である。また、草木が手入れされていないせいか、蛾の数・大きさが次元を越えていた。
その日は、他の団体等の大勢の人が来ていた為、1人あたりのスペースも狭すぎた。寝袋に入っても堅い床のせいで、なかなか寝付けなかった。
だが、震災当時、体育館で避難を余儀なくされていた人は、このような夜を嫌という程味わっている。
如何に自分達が恵まれているかと言う事を体験した貴重な一晩でした。
1番~3番を表示